笹が好きさんからのお手紙
神奈川県 30代 男性
医療 精神保健福祉士
もしかしたら、のひとことからこの手紙を始めようと思う。
と、その前にここで断っておきたいのだけど、僕は注意が移ろいやすく記憶力が弱い。
だから、話している途中で話が脱線して、もう元に戻れないということがある。
手書きならなおさらだ。上書きということができない。筆に任せるうちに脱線する前に何を話す心算だったのか忘れてしまっている。今もまた冒頭の「もしかしたら」に続く言葉を見失ってしまっている。
というのは嘘で、「もしかしたら」で始めようとは、今日の午後のふとした思いつきで、そもそもその後に続く言葉があったわけではない。ノープランだ。
手紙とは果たしてそういうものなのだろうかとは些か疑問だが、筆をこのまますすめてみたい。
思いつきを支持してこうして現実のものとしているのは、たぶん「もしかしたら」のもつ力が今の僕にとって魅力的だったからだろう。「もしかしたら」は可能性を生むのだ。どういうことか、ちょっと実践してみよう。
もしかしたら、僕は女の子かもしれない。もしかしたら僕は死んでいるかもしれない。もしかしたら、お小遣いが増えるかもしれない。もしかしたら、ノーベル賞がもらえるかもしれない。
と、とりあえずやってみたものの……なんだこれは、と思う。僕も知らない僕の中の何かがにじみ出ている気がする。
後ろ二つの例文である意味明るい未来、達成感を伴う未来像が描かれてしまうと、前二つの例文もまた僕の希望のように見えてくる。ということは、この際乱暴にまとめてしまうと僕は女の子の霊として在りたいということだろうか。よく分からない。
そもそも「女の子の霊」だけでは言葉の射程が広すぎる。徐に思いつく「女の子の霊」の例としてはトイレの花子さんもその一つに挙げられるが、他にも例えば、通学路を漂いながら同級生が卒業していくのを見守り、やがて何代もの後輩たちがわたしの前を通り過ぎて行った。
たまに、わたしに気付いて吠え声を上げていた犬たちも顔を変え、そのいずれも最後には見なくなってしまう。置いてけぼり。
(そんな女の子の霊になりたいかどうかの判断を置いて、そんな女の子の霊の気持ちを知りたくて、満員電車で運良く座りながら、もし自分が幽霊である以外全てはこのままの条件であったとしたら、と考えると、誰かと話すという行為が急に身に迫ることとして胸を重くした。)
わたしは幽霊になりたかったわけではない。わたしにはわたしの夢があった。まだたくさんやりたいことも、やらずのまま、ある。あの日、家をあんなに急いで出ていなければ、遅刻な
んて死ぬようなことではないのだから、その心算で家を出ていれば、死なずに済んだかもしれない。もしかしたら、あの時よりもまだ長く幸せな一生を過ごしたのかもしれない。
と、脱線部が膨張したけれど、幸いにも今日は何を書くべきかがわかる。特に言いたいこともなく書き始めたのに、結論が出てくるから不思議である。
この手紙では以下のことを伝えたい。
「もしかしたら」はもちろん悲観的な現実も描写できるが、マッチの火の中に映る団欒の風景のように望ましく、暖かく、あり得た今を描きだすこともできる。後者は希望の文法になる。
「もしかしたら」で始めることは、今を変える原動力になりえるのではないだろうか。